最近、時代遅れもいいところだが、『進撃の巨人』を観た。
なんとなく昔から周りの人が見ていたので、潜在意識に潜んでいた進撃の巨人。
こんなにも考えさせられるアニメを久々に見て、とっても嬉しく、感動している。
アニメを見終わってからも、音楽を聴いたり、海外の人たちのリアクション動画を見たりして、何度も泣いている。
その中でも、ひぐちあいさんの『悪魔の子』を聴いたとき、ものすごく心を揺さぶられた。

この歌が問いかけてくるのは、
「正義ってなんだろう」
「自由ってなんだろう」
「人はなぜ争うんだろう」
ということ。
そして私は、以前聞いたある話を思い出した。
ドイツの人がこんなことを話していたという。
「私たちは、自分の意見を持たなかったから戦争を止められなかった」
一方、日本には戦後、
「みんなで力を合わせなければ復興できなかった」
という経験がある。
もちろん、歴史はそんなに単純ではない。
ドイツ人が意見を持たなかったから戦争が起きたわけでも、日本人が敗戦によって初めて調和を身につけたわけでもない。
でも、戦争を経験したあとに、それぞれの社会が「何を大切にしようとしたのか」を考えると、とても興味深い。

ドイツでは戦後、
「自分で考えること」
「自分の意見を持つこと」
「権力に対して異議を唱えられること」
が、民主主義を守るうえで、とても重要なものとして考えられるようになった。
一方、日本では、焼け野原になった社会をみんなで立て直し、高度経済成長を経験していく中で、
「協力する」
「周囲と合わせる」
「和を乱さない」
ということが、社会の中で大きな力になっていったのだと思う。
どちらも、大切なことだと思う。
でも、どちらにも危うさがある。
自分の意見を持たず、周りに合わせ続けていたら、集団全体が間違った方向へ進んだときに「それはおかしい」と言えなくなる。
反対に、
「私はこう思う」
「私は正しい」
ということだけを突き詰めていけば、自分の正義のためなら、相手を傷つけてもいい。
そんな世界にもなり得る。
ここで私は、『悪魔の子』の世界とものすごく重なった。
『進撃の巨人』には、絶対的な「悪」がほとんど出てこない。
壁の中の人たちから見れば、壁の外にいる人間が敵だった。
でも、壁の外へ行ってみたら、そこにも普通に暮らしている人たちがいた。
家族がいて、子どもがいて、好きな人がいて、守りたい日常がある。
そして彼らから見れば、今度は壁の中の人たちが「悪魔」だった。
立つ場所が変われば、正義が変わる。
自分たちが「敵」と呼んでいる人にも、その人から見えている世界がある。
それが分かってしまったからこそ、『進撃の巨人』は苦しい。
そして『悪魔の子』には、
「正しさとは、自分のことを強く信じること」という趣旨の、とても印象的な言葉が出てくる。
一見、自分を信じる素敵な言葉のようにも聞こえる。
でも曲が進むごとにこれが揺らいでいくのがわかる。
争っている双方が、「自分たちは正しい」と信じているからだ。
正義を持つことが危険なのではない。
自分の正義しか見えなくなることが、怖いのだと思う。
そんなことを考えていたら、谷口たかひささんから教えてもらった言葉を思い出した。
よくヴォルテールの言葉として紹介される、
「私はあなたの意見には反対だ。けれど、あなたがそれを言う権利は、命をかけて守る」という趣旨の言葉だ。
実際にはヴォルテール本人の発言ではなく、後世の作家が彼の思想を表現した言葉らしい。
でも、私はこの考え方がとても好きだ。
なぜなら、
「あなたを尊重すること」と「あなたに賛成すること」は、同じではない
と教えてくれるから。

私はあなたとは違う。
私はあなたの意見には賛成できない。
場合によっては、「それは違うと思う」とはっきり伝えることもある。
でも、
あなたがそう考えることまで、私は奪わない。
これって、ものすごく大切なことなんじゃないだろうか。
私はこれまで「調和」というものを、どこかで
「みんなが仲良くすること」
「意見を合わせること」
のように捉えていたのかもしれない。
でも本当の調和って、
同じになることではないのかもしれない。
私は私の意見を持っている。
あなたはあなたの意見を持っている。
違うままでいい。
そのうえで、「じゃあ、私たちはどうやって一緒に生きようか」と考える。
それが「対話」なのだと思う。
『進撃の巨人』を見ていると、人間は何度も「どちらが正しいのか」を決めようとする。
でも、相手にも相手の歴史があり、恐怖があり、大切な人がいる。
自分の自由を守ろうとした結果、誰かの自由を奪ってしまうことさえある。
だからこそ必要なのは、
自分の意見を持つことと、相手も一人の人間だということを忘れないこと。
その両方なのかもしれない。

私は最近、家族との「対話」を大切にしたいと思っている。
相手に合わせて、自分の気持ちをなかったことにするのでもない。
「私が正しい」と相手を説得するのでもない。
私はこう思う。
あなたはそう思うんだね。
じゃあ、どうしようか。
その場所に立ち続ける。
それは時々、ものすごく怖い。
だから私は、『進撃の巨人』を見ながら、
「家族との対話に、心臓を捧げたい」と思った。
心臓を捧げるというのは、自分を犠牲にすることじゃない。
自分の心臓をちゃんと持ったまま、相手にも心臓があると信じること。
正しさだけで相手を切り捨てない。
調和のために自分を消さない。
違うまま、一緒に生きる道を探す。
もしかしたら、それが私の目指したい「調和」なのかもしれない。
『悪魔の子』を聴いて泣きながら、そんなことを考えた。
